ふくしま暮らし、はじめました

来る2月より復興庁の市町村応援職員として、福島県浪江町役場・二本松事務所に派遣され、約1年間、復興推進課にて広報のお手伝いをします。正式な辞令に先立ち、ボランティアとして1月16日から勤務を開始しました。

浪江町は沿岸部から北西にかけて長いひょうたん型をしています。ちょうど放射線の高濃度汚染地域と重なるような形になっていて、町域の約8割が帰還困難区域です。沿岸部を中心とした低線量地域は避難指示解除に向けて除染が始まっていますが、2014年1月現在も全町民が避難しており、町役場もほとんどの機能が二本松市内の事務所に移転しています。

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先日、公務の一環として役場職員といっしょに浪江町内に立ち入らせてもらいました。報道などで見聞きしてきた「被災地の風景」ですが、自分の目で見るのは初めてでした。以下にその風景をいくつか掲載します。

(1)二本松市から浪江町沿岸部の津波被災地に行くには、北西部の帰還困難区域を通っていく必要があります。この区域の立ち入りには通行証が必要です。この先のスクリーニングポイントで線量計を借りました。

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(2)帰還困難区域にあるモニタリングポストのひとつは、9.856マイクロシーベルト/毎時を示していました。一方、避難指示解除準備区域である沿岸部は0.2から0.4くらいでした。

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(3)常磐線浪江駅は海から5キロほど離れており、津波の被害は受けませんでしたが、商店街では地震によって倒壊した(しそうな)建物をあちこちに見かけました。通行の妨げになっているものを除いて手が付けられていません。一方で、ほぼ無傷の建物もかなり残っており、原発事故がなければ今ごろ商店街はとっくに再興を果たしていたのではないかと思われます。このあたりの線量は比較的低く、日中の立ち入りは自由な地域です(ただし浪江町は独自に検問を設けています)が、伸び放題の雑草がそのまま立ち枯れた無人の町は、異様というか、SF映画のセットのような不思議な光景でした。

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(4)JR常磐線の線路。いまのところ復旧の目処は立っていないそうです。ここから津波被災地へ向かいます。

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(5)請戸港への道。この辺は田んぼだったそうです。雑草の海のなかに車が点々としていました。

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(6)請戸の慰霊碑の後ろには漁船がそのまま。そのとなりには行き場所の決まらないガレキが積まれたままです。

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(7)港からすぐの請戸小学校。地震の影響も大きかったようで、体育館の床は大きく陥没していました。その校庭ではガレキの選別作業が黙々と行われていました。

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(8)低線量の沿岸部では、今年1月からやっと本格的な除染(すなわちモデル除染ではなく)が始まったそうです。でも除染で出た土やゴミは、中間貯蔵施設が決まるまでだれかの土地に置かせてもらうしかないので、まず住民合意が必要です。

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(9)行きと同じスクリーニングポイントで線量計を返却します。約6時間の滞在で累積被ばく量は4マイクロシーベルトでした。また、ここで身体や車の放射線量を計り、必要があれば除染してもらいます。

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これからも随時、福島および東北の被災地からお伝えしていきたいと思います。

「ふくしまを忘れない」というとき、それは3年たってもガレキがそのままとか、いまだに15万人が避難生活とか、そういうことを知って「ああ、たいへんだな、気の毒だな」と感じることだけではないと思います。原発の必要性について、震災後だれでも思いを馳せた一瞬があったのではありませんか?「忘れない」ということは「考え続ける」ということ。原発推進でも脱原発でも、そう簡単には決められない難しい問題だからこそ、日本のエネルギー政策はどうあるべきか、すなわち日本をどんな社会にしていきたいのか、我々一人ひとりが自分の頭で考え続けることが、この国の将来にとって決定的に重要だと思っています。

(このブログの内容は執筆者個人の意見に基づくものであり、執筆者が所属する組織等の見解を示したものではありません)

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祖母の死に寄せて

先日の敬老の日に総理大臣から百歳長寿のお祝いをいただいた祖母が、亡くなりました。
およそ病気とは無縁の祖母でしたが、年齢とともに衰弱し、ついに自力で水分も嚥下できなくなりました。家族の総意で、薬を打たれることもなく、たくさんのチューブにつながれることもなく、約十日後に自然死、すなわち餓死しました。
死ぬ前日に会いましたが、文字通り骨と皮になった祖母は、目をつむったまま手だけ盛んに動かしていました。手を止めると軽いイビキのような音をたてていましたが、ときどき片目を薄く開けても発声はしませんでした。したくてもできなかったのかもしれません。枕元のタオルを口のほうに持っていくような仕草や、起き上がろうとするような仕草もしました。息をひきとる2時間くらい前までそのようにしていたそうです。そんな祖母の姿は、「穏やかに、すやすやと眠るように」というイメージとは少し違いました。そんなものを期待するのはこちらの身勝手なのでしょう。まだ生きようとしているように見えました。ああ、こうやって人間は死んでいくんだな、と思いました。私に子供がいたら、絶対に見せておきたいと思いました。
人間が自然に死ぬ姿を見せてくれた祖母に感謝しています。おばあちゃん、ありがとう。

中川家は臨済宗ですが、母方の愛川は浄土宗。南無阿弥陀仏のお葬式は27年前の祖父以来で、なんだか新鮮でした。
実は浄土宗に対しては、よく知りもせず、ただ「他力本願、念仏となえてれば救われる」という、なんとなく安直なイメージを抱いていました。念仏はもちろんナダヨガのマントラチャンティングも、儀式っぽくてなんか胡散臭い感じで、まじめに取り組む気になったことがありません。ところが、告別式に来てくださったお坊さんは、お経の前に講話をはじめ、私の顔をみながら「他力本願」のほんとうの意味や念仏の効用を話してくれました。なんだかちょっと見透かされたような気がしました。
ちょうど前日、空也上人の本を読み終わり、浄土思想というのは日本(やインドや中国)の歴史のなかで生まれるべくして生まれてきたものなんだと理解したところでした。浄土宗が少し身近になりました。

ところで、南無阿弥陀仏の南無は、ナマステのナマ(ス)と同源だそうです。もとは頭を軽く下げるという程度の意味だったそうですが、それがいつ首を斬られてもいいような姿勢であることから、転じて「すべてお任せする」という意味になったそうです。すべてお任せする、というのは、自分はなにもしなくていいという意味ではなく、できることをすべてやりつくしたら、あとはあれこれ心配せず落ち着いて構えるということだそうです。ヨガの勉強をしているとSurrenderという訳しにくい言葉にぶち当たりますが、これと同義かなと私は解釈しました。言うは易し…

たとえば空也上人が現代の東京にいたら、どんな活動をされるのでしょうねえ。それより、自分にいま何ができるか考えないといけないな。Surrenderするのはそれからです(笑)。 合掌。

わたしが牛や豚をなるべく食べない理由

(5月にfacebook にアップした原稿をこちらにも掲載します)

「雅美はベジタリアンなの?」 お肉が出てくると「大丈夫?食べられる?」と聞かれることが多いので、自分の考えを整理するためにも、ここに書きます。

私はアレルギーや宗教上の理由で肉がダメなわけではないので、食べようと思えばいくらでも食べられます。実際、昔は焼き肉大好きでした。でもいまは、魚も含めて動物性の食品は、必要最低限と思う量だけ食べるようにしています。有難いことに、そういう選択をする自由があるからです。

だから、卵や雑魚、小エビなどはほとんど毎日食べますし、月に数回は切り身の魚や鶏肉も食べます。もともと嫌いな牛乳を除いて、チーズやバターなど乳製品も食べます。牛や豚はなるべく食べませんが、ソースや出汁の材料まではあまり気にしません。私がいま心がけていることは、肉を避けるよりも、食べなくてもいいお菓子とか飲まなくてもいいアルコールなどを減らし、なんであれ必要以上に食べないようにすることです。それから、動物でも植物でもどんな食材でもありがたくいただいて、無駄を出さないようにすることです。

とはいえ、牛や豚を極力避ける理由は、あります。

ほかの食肉もそうですが、この2つは特に生産資源効率が非常に悪いため、それらの消費を減らし、もっと他の生産効率の高い食材に資源を振り向ける必要があると考えるからです。1キロの牛肉と1キロのジャガイモでは、生産に使う水の量や土地の広さに莫大な差があります。カロリーベースでみても同じことです。(よかったら是非このレポート読んでみてください。翻訳しました。

世界の食糧事情―もったいないの実践を

ベジタリアンの中には、殺される動物がかわいそう、あるいは飼育や屠殺の方法が残酷だ、という理由を挙げる人もいるでしょう。私もそれにある程度同意しますが、それよりも、現代の畜産を続けていたら次の世代まで地球がもたない、という懸念のほうが重大だと考えます。

もちろん、畜産だけでなく近代農業全体が環境や資源の問題と無縁ではありません。結局人間、持続可能性を超えて地球を搾取しなければ、生きていけないところまで来てしまった。でも、私たちの子や孫の代のことを考えたら、いま一人ひとりが意識して少しだけでも行動を変えることは、無意味ではないと思います。だから、こんなところにせっせと書き込みをしています。

最近の自問

先日泊まった長野の宿では、広大な自然農園も運営していて、頼めば畑の案内もしてくれる。ここは農薬も化学肥料も一切使わない、すべて露地栽培。いわゆる自然農。県からエコファーマ認定も受けている。とれた野菜はもちろん安全安心でとってもおいしい。収穫量は?と聞いたら、ふつうの農場と同じか少し少ないくらい、ということだった。人手はやっぱりかかる。ふつうの農場なら同じ広さを管理するのに2人で済むところを10人で作業をしているそうだ。その人件費は値段に反映される。

こういう話を聞いて、とても複雑な気持ちになる。

自分自身はこういうふうに作られた野菜を食べたいな、と思う。でも、すべての人がこういうふうに作られたものを食べられるわけではない。そもそも昔はすべての農家が「自然農」だったのに、なんで農薬や化学肥料なんて「悪者」が作りだされたのか?品種改良なんて「不自然」なことが行われるようになったのか?

全世界的にみるとそれは第一義的に、増え続ける人口に見合うだけの量とスピードを確保するためだったと思う。実際、単位面積あたりの収穫量はこうした「悪者」のおかげで飛躍的に伸びてきた。だからこそ、農地拡大のペースを大幅に上回るペースで食料増産が可能だった。もし「悪者」がいまほど発達してなければ、もっとたくさんの「自然」が農地として開拓されていたかもしれない。農業だって考えてみれば「不自然」なのだ。

それに、経済が発展すると、若者は田舎の農業なんか嫌ってみんな都会に出たがる。農業を支える人手不足を補うために、機械化が進み、農薬や肥料による効率化が追求され、それが農産物価格の安定に寄与してきた面は否定できないはず。

経済が成熟して人口拡大もストップした今日の日本でこそ、スローライフがひとつのトレンドになり、農業が見直され、若い世代もIターンUターンで帰農・就農が流行っているけれど、途上国ではまだまだそこまで遠い。

自分は都会で便利な暮らしを享受しておいて、農産物だけは自然でしっかり人手のかかった安全なものを食べたいというのは、やはりワガママではないのか?
自分は高くてもいいからオーガニックなものが食べたい、といってるだけでは、貧困国を含めて貧乏人は危険なものを食え、というのと実質同義ではないのか?

自問する日々はつづく。もっと勉強していろいろなことを知らなければ。

Global Food- Waste Not, Want Not 世界の食料事情―「もったいない」の実践を

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今年1月に、イギリスのInstitution of Mechanical Engineers(機械エンジニア協会)という団体が、Global Food- Waste Not, Want Notと題した世界の食料廃棄に関する報告書を発行しました。その内容を、日本ではJapan Timesが社説で取り上げましたが、日本語では通信社が短く伝えただけでした。私はたまたまそれを見つけ、報告書全文を読んでみたところショックを受けました。

そこでまず、これは自分の家族に読んでほしい、特に小さい子供のいる弟夫婦に読ませたいと思い、発行元の許可をとって和訳しました。

食品ロスについてはなんとなく関心を持ってきましたが、全く知らないことばかりで、翻訳を通じて私自身たいへん勉強になりました。

日本やアメリカで食品ロスというと、スーパーやコンビニから賞味期限前に撤去されてしまう話や、レストランやホテルでの食べ残しの話がイメージされますが、世界にはそれ以前の、市場や消費者に届く前の段階で、大量の食べ物が失われている現実があることを知りました。

また、食品の生産には多くの資源が必要だということも、漠然としか想像できていませんでしたが、土地や水、エネルギーといった資源が具体的にどれほど大量に必要なのかもわかりました。

そして、「食の安全」などと生半可なきれいごとをいっても、品種改良や化学肥料や農薬を使わなければ、もう地球上の人口を養うだけの食べ物は作れないのだ、ということもわかりました。

在英団体の発行ですので、イギリスの例がひかれているところも多いのですが、日本はもっと人口が多く、スーパーへの納入期限などの商慣習ももっと厳しいそうですから、推して知るべしの状況でしょう。もちろん、日本の状況については農水省をはじめ、セカンドハーベストジャパンなどのフードバンク団体が統計資料を用意してくれています。

多くの人にとって、食糧危機と食品ロスの問題を考えるきっかけとなれば、と思い、ここにレポートの和訳を掲載いたします。第三者のチェックを経ていないので、専門の方が読むとおかしいと思われるところもあるかもしれませんが、その際はお手数でなければどうぞご指摘いただければ大変有難いです。

全16ページですので、さほど分厚くありません。ぜひお時間のあるときに読んでいただければ幸いです。
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生きている

この地球の表面の薄い薄い大気圏に、へばりついて、生きてる。

短くて、もろい、いのち。

どんな意味があるのか、どんな価値があるのか、わからないけど、私たち、生きてる。

あと数十億年もすれば、地球ごと消えて無くなる。でも今日、私たち、生きてる。

明日死ぬかもしれなけど、今日、私は生きている。

生きてることを、ただ見つめている。