カテゴリー別アーカイブ: 読書感想

キリスト教とは何か。

こないだ、偶然コンビニの雑誌コーナーで、Pen5月号別冊の「キリスト教とは何か。」というのを見つけました。780円でこれはかなり得した気分です!

教会の壁画や中世~ルネサンス絵画からキリスト教を読み解くという主旨ですが、「大幅増補!」と謳っているだけあって、すごく内容充実しています。旧約・新約聖書の人物系譜なんて、かなりエキサイティング。幼稚園含めて18年ミッション系の学校に通いましたが、こんなの見たことありませんでした。

旧約聖書のモーセの出エジプト記の中で、神がモーセに向かっていう言葉。「私はある。あるという者だ」。

I am that I am. 

「自分はあらゆるところに存在するもの(ハイウェ)であり、これが旧約聖書の神『ヤハウェ』の語源となっている。名前ではなく、神の概念を表すものとして呼ばれることが興味深い。これがユダヤ教の厳しい偶像崇拝禁止に繋がるのである」

と解説がついています。わたし的にはかなり「ふむふむ」でした。

あらゆるところにいるんだから、すべてのものに神が宿る→多神教。アニミズム。

あらゆるところに偏在するひとつの神→一神教。このほうが人格化して絵には描きやすい。

同じ概念を別の角度から見てるだけなんでしょうね。

個人的には前者のほうが得心が行くのですが、やはり文字が読めない人々にこういう概念(智恵)を広めようとすれば、絵を使わざるを得なかった、という事情は理解できます。(まあ、ヒンズーみたいにビジュアル系の多神教もありますし)

ただ、文字で書かれた聖書であっても、そもそも書かれた年代がばらばらだったり、途中でほかの信仰の要素が混ざったり、教団の組織化とともにいろんな解釈が加わったりしてるのは、ほかの聖典と同じようです。

聖典の勉強はアシュタンガにも入ってますが、なんにしても「オリジナルの教え」からは変遷してきているものだ、と念頭において読むべきだなと思いました。

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The Power of NOW

これはですね、東京ヨガでヨーガスートラ講座などを担当してらっしゃる伊藤先生が、YOGAYOMUのコラムで、この「The Power of Now」という本を読むと、スートラに書いてあることのエッセンスはすべて入っている、というようなことを書いてらっしゃったので、その日のうちにアマゾンで注文したものです。

著者のEckhart Tolleという人はまだ生きてる人です。

生きてる人が書いたものはあんまり有り難味がない、というと失礼ですが、どうしても「こんなに売れたら印税入って儲かるよなあ」などと、下世話な発想をしてしまうワタシ。

しかし、たしかに平易な言葉でとってもスムースに読めます。スピリチュアルというより、アメリカ人らしく自己啓発本に近いでしょうかね。

面白かったのは、聖書の言葉の「ヨガ風」解釈がたくさん出てくること。私は幼稚園からミッション系に通ったので、聖書の話はよく聞かされ読まされて育ったのですが、聖書のこのフレーズは、なるほどそういう意味なのか、そういう解釈ができるのかと、ある意味目からうろこでした。

宗教くさいのはどうも敬遠してしまいますが、私自身、逆に最近は「神」という呼び名にそんなに抵抗なくなってきた気がします。どんな名前でも、全部同じ「それ」を指しているらしい、というのがわかってきたからだと思います。

よくアサナのクラス中でも「here and now」などと言ったりしますが、まさにその「now」がこの本のタイトル。「いまここ」にフォーカスすることで幸せになる。

スートラのエッセンスって、こういうことなのかなあ・・・

生物と無生物のあいだ

分子生物学者の福岡伸一さんのベストセラーです。

新聞のコラムで福岡さんの文章を読んで、これ読みたいと思っていて、最近やっと購入。

どうも最近は、なんでも「ヨガっぽい」視点で解釈してしまうもんで、「これはラマナ・マハルシ師の言ってるアレのことじゃないか?」なんて勝手に結び付けて、「ふむふむ」「はあ?」となどとやりながら、昨日読み終えました。

「ふむふむ」なところを一節引用します。

『肉体というものについて、私たちは自らの感覚として、外界と隔てられた個物として実体があるように感じている。しかし、分子のレベルではその実感はまったく担保されていない。私たち生命体は、たまたまそこに密度が高まっている分子のゆるい「淀み」でしかない。しかも、それは高速で入れ替わっている。この流れ自体が「生きている」ということであり、常に外部から分子を与えないと、出ていく分子との収支が合わなくなる』

これを読んで思い浮かんだ句が、

ゆく川の流れは絶えずしてしかももとの水にあらず。

これって人間の身体のことだったんだ~

このほかにも、エントロピーの法則、動的平衡、いろいろ新鮮な言葉を学びました。まったく人体の不思議です。一体なんで?だれが何のために?・・・いや、理由や目的というものを考えるのが人間の浅はかさ、なのかもしれませんね。

やっぱりすべては「神の意思」、あるいは「神の遊び」なんだ、きっと。

それにしても、分子生物学者ってものすごい数の実験動物を殺してきたんだなあ・・・合掌。

Upanishad

先日のナマステ・インディアで、偶然「ウパニシャッド」と書いた手ごろなサイズの本を見つけました。

ウパニシャッド・・・。ウン十年前の世界史で習ったよなあ。

なんかもっと、分厚い壮大な文献のようなイメージだったけど、B6サイズのソフトカバーで270ページ?これだけなの?

日本ヴェーターンダ協会という団体が発行していて、序文によれば、割愛しても意味に影響がないと思われる部分は大胆に割愛してあるんだそうです。

ふーんなるほど、それならこのくらいの量で収まるのかもしれません。

ヨガはじめると、まずヨガスートラ読みなさい、みたいな流れになっているので、私もいちおう2-3冊の解説書を読みました。

バイブルみたいな扱いなので、ヨガに関する大事なことは全部これに書いてあるのかと思っていたら、もっと古いウパニシャッドにもヨガって出てくるんですね。

Om Shanti Shanti Shanti というマントラは、ウパニシャッドに書いてあるんだって初めて知りました。

ヨガスートラもウパニシャッドも、読んで「ふーむなるほど」という気もするし、「さっぱりわかりましぇーん」という気もする、たいへんおもしろい文献です。

2つで使われている言葉はちょっとずつ違って、それはヴェーダーンタとサーンキャという違う考え方(哲学)らしいんですが、私のような凡人が読むと、要はみんな同じこと言ってるような気がします。

ただ、現代日本でいわゆる「ヨガ」やってて思うのは、やっぱりこういうオリジナルのインド哲学とはだいぶ乖離してるんじゃないかなあ、ということ。

よくヨガ雑誌とかヨガクラスで、「ヨガは結びつけるという意味」「心と身体を結びつける」「自分の内と外をつなぐ」みたいなことを見聞きしますが、私は最初から、全然これにピンと来なかったのです。

ちいとずついろんな本を読むうちに、この「心と身体を結びつける」というのは、実はウパニシャッドやスートラのヨガと正反対なのかも、と思えてきました。

たぶん、心と身体というのはそもそも不可分に結びついちゃってるもので、ヨガの目的は、いかに心+身体の連合軍から、真我(プルシャまたはアートマン)を引き離すか(同一視をやめるか)、ということにあるわけです。

じゃ、「ヨガ=結ぶ」って何を結ぶのか?というと、このウパニシャッドの解説にも出てきますが、もともとは「くびきをかける」という意味だそうで、同じ「結ぶ」でもかなりニュアンス違いますよね。

つまり、自分の感覚器官にくびきをかけて、コントロールし抑制することを学ぶのが、ヨガ。この説明のほうが、私としては素直に納得できます。(実践できるかは別問題ですけど!)

ついでにもっと言うと、ヨガとよく一緒に使われる、愛とか平和とか友情とか共感とかそういう概念も、ウパニシャッドやヨガスートラに書いてあることと、ほとんど親和性がないと思います。

ウパニシャッドやスートラの作者の関心事はひとえに「自分ひとりがどう解脱するか」ということで、他人を助けるとか、ましてや世の中救うとか、全然そういう発想じゃなさそうですもん(結果としてそうなるとしても)。

だから、ヨガ=loveだのcompassionだのというのは、やはりキリスト教的博愛主義の価値観があわさって、「いま流行のもの」として日本に輸入されてきたもの、という気がします。

それはそれで、ひとつの、時代とともに進化してきたヨガの形であって、もしかしたら21世紀の世界にはそういうヨガが必要なのかもしれません。

でも、私はやっぱりしっくり来ないんだなあ。やはり自分ひとり、どう生きるか、どう死ぬか、どう解脱できるかで悩み続けると思います。でも現世での解脱はもう無理みたいですけど・・・(笑)。

Tales of Wonder

ヨガの練習を始めてから、「それ系」のいろんな本を読みましたが、いまさっき読み終わったのが、宗教学者ヒューストン・スミスの自伝、Tales of Wonderという本です。

なーんて知ったように言ってますが、ヒューストン・スミスなんて人は私は聞いたこともありませんでした。偶然もらったNewsweek 日本語版(マイケルジャクソン特集!)の最後のほうにbook reviewが出ていて、なんとなく面白そうだったのでアマゾンで注文したんですが、読み終わった今は、「これは出会いだったな」と思っています。これから彼の著作は全部読むつもりです。

哲学と宗教について、2週間ほど前にここで偉そうなことを書きましたが、定義によってはその境目はかなり微妙ですね。結局すべて同じところを目指している、というか、自分のなかに元からある(存在・existence)してるものに気づく(意識・concsiousness)、ための道がさまざまだということのようです。

Tales of Wonderで最初に「おお」と思ったフレーズは、

God is not the Creator but the creating process.

キリスト教に関してヒューストンの先生が言った言葉ですが、宗教だって人格化を卒業できるんだなと(私は解釈した)。

そして今の私の疑問は、なんで人間こういうふうに(近代化という意味での)「進化」(あるいは「それ」への気づきを喪失してきたという意味では退化)を遂げてきたのか?ということです。それにもなにか理由があるに違いない。

これからもっといろんな本を読むのが楽しみです。