ふくしま暮らし(7)-1年たちました

少し前になりますが、映画『日本と原発』 を観てきました。 昨年11月から東京で上映が始まり、その後も各地で自主上映や有料試写会が継続しているようです。私が行ったのは六本木シネマート。定員150人ほどの小さなシアターですが、超満員でした。 この映画についてのプロの評論は、 「超映画批評」日刊ゲンダイをご覧いただくとして、以下は私の感想です。

    「原発の真実」を暴露するといっても、弁護士さんたちが作ったドキュメンタリーということなので、もう少し客観的な、というか多面的なアプローチを予想していましたが、違う印象でした。2時間17分は映画として短くはないですが、やはり「原発の問題」をぜんぶ網羅するのは不可能です。

    たしかに、映像の威力はすごい。素人が全文を読み込むのは不可能な事故調査報告書や原発運転差し止め判決文、政府の内部文書や東電の記録映像などを、ダイジェストして絵と音声で解説してくれるので、素人の頭にもすっと入ってきます。しかし、原発は危険・不要、再稼働を許さない、という主張に沿った部分しか抜粋されていないので、観るほうはそういう理解で観ないといけません。もちろん、東電をたたき、推進派の主張を論破するのを見て、ただ「溜飲をさげる」という観賞法もあるでしょう。が、原発へのスタンスを決めるため問題を一から勉強したいという目的であれば、この映画だけでは到底足りず、数々出版されている書籍類も合わせて読むべきと思います。

    特に足りないと感じたのは、原発を受け入れた自治体側の事情です。そもそも、どうして日本にこんなに原発ができてしまったのか?地元はどうして原発を欲してしまったのか?そこに踏み込まないと、日本から原発をなくすことは不可能でしょう。仮になくなったとしても、「(東京のために)地方が犠牲になる」という構図は、別の形で繰り返されるだけではないでしょうか(とにかく原発がなくなりさえすればいい、という問題認識ならそれでも良いかもしれませんが)。

    そして、この映画では、被災自治体としてなぜか浪江町だけが大きくフィーチャーされています。というより、被災地・被災者として紹介されているのは、ほとんど浪江だけ。あたかも浪江町が被災地の代表のように紹介されていることに、いまその自治体で手伝いをしている身としては少々違和感を覚えました。たしかに、震災翌朝の避難命令のせいで「助かったかもしれない命を見殺しにした」という悲惨な経験は、反原発ストーリーの象徴としてふさわしいかもしれませんが、それは浪江に限った話ではありません。

    今でも避難指示が継続中の10市町村は、外からみれば「原発被災地」として一括りかもしれませんが、事情はさまざまです。よく言われるように、実際に原発が立地していた町と、そうでない周辺の町では、事故前に受けていた「恩恵」の質量も、事故当初の状況も、そして現在の状況もかなり異なります。そのなかで、浪江のストーリーだけが都合よく利用され、反原発のシンボルとして祭り上げられたようで、複雑な心境でした。もちろん、浪江町の立場は、いまでは原発再稼働反対です。しかし、立地ではなかったもののイチエフの恩恵がゼロだったわけではありませんし、実際、東北電力の原発を誘致もしていた。浪江も原発がほしかったのです。

    また、一緒に映画を見た友人は、こういう感想を述べました。いわく、東電や安倍・自民政権といった「わかりやすい標的」の攻撃で終わっているが、根本には日本国民全体の「豊かになりたい」というあくなき欲望があって、そこを注視しなければ問題解決にはならない、と。その通りだと思います。 2時間という限られた尺で、「そもそも経済成長は必要か・豊かさとは何か・幸せとは何か」といった哲学的議論まで展開できないのは致し方ありませんが、相手を攻撃するだけでなく、自分の胸に手を当てるような場面が、少しでもあったらよかったかと思いました。

      ・・・とここまで書いたのが約3か月前。 原発との向き合い方に悩み、ヒントになればと思ってこの映画を見ての感想文だったのですが、読み返してみると、「だから何をどうすればいいと思うわけ?」と突っ込みたくなりますね(笑)。 今月、原発被災自治体のひとつ浪江町で働き始めて1周年を迎えました。原発についての考え方は、実はまだ整理しきれていません。でもここでいちど、頭の中のものを言葉にしておきたいと思います(もちろん、すべては私個人の考えであって、所属組織の見解とは無関係です)。 大まかに言うと、

      1. 原発は、①出た危険ゴミの処分の仕方がわかっていない(机上ではOKでも実現不可能なら同じこと)、②機械なので事故や故障は想定されて当然だが、壊れても直し方がわかっていない、③実際に壊れたときの社会的損失が大きすぎる、という点において、諸々のメリットを上回るリスクがある。
      2. その「社会的損失」とは、長期避難生活を支える行政コストや電力会社による賠償額といった数字に表せるものだけではない。被ばくの不安はもとより避難やコミュニティ崩壊による心身への負担、それによる諸々の逸失利益、人々の亀裂を修復するのに要するエネルギー、といった数字に表せないもののほうが格段に大きい(この大きさは近くにいると直感的にわかる)。
      3. 人口がこれ以上増えず、国レベルで一定の物質的豊かさを達成した日本では、このようなリスクの大きい発電方法は不要である。それでエネルギー需要が賄えず、経済成長できないというのであれば、しなくてよい。経済成長は目的ではなくあくまで手段のはず。目的は国民が幸せになることであって、経済成長しなくても国民が幸せになる方法を模索すればよい。そこにこそ知恵を絞るべきである。国内のすべての原発は再稼働することなく、速やかに廃炉のプロセスを開始し、廃炉技術の研究開発にこそ投資すべきである。
      4. 原発立地自治体が(周辺自治体もある程度)、様々な経済的恩恵を受けてきたのは事実であるし、たしかに原発がなくなると多くの人が職を失うかもしれない。しかし、「撤退されると困る」構図は原発だけでなく、どんな産業施設にも言えること。国策で推進されてきた原発だが、どんな国策も未来永劫不変ということはあり得ない。原発という麻薬はもちろん、大きな装置産業さえ誘致すればいいという発想に頼らない地域経済の設計にこそ、英知を集めるべきである。
      5. 一方で、世界の開発途上国ではこれからも倍々ゲームでエネルギーが必要になっていく。彼らに対して「豊かさを求めるな、貧しいままでいろ」という勇気がない限り、少なくとも短期的には、彼らのエネルギーミックスから原子力を排除することはできないのではないか。そこに日本の持つ原子力技術(失敗の経験も含めて)を提供することには意義があり、この先確実に必要となる安全な廃炉の技術においてこそ、日本はリーダーを目指すべきではないか。
      6. しかしこの理屈だと、日本はもうアブナイ原発卒業するけど、貧しい国のみなさんが日本みたいな生活水準目指すなら、仕方ないのでアブナイものも使ってね、これ以上地球温暖化進むと困るから、ということになってしまう。
      7. 当面そういうジレンマには目をつぶるしかないが、同時に、早急に、増えすぎた世界人口を抑制して地球全体で必要なエネルギーの総量を減らす方法を模索すべきである。これを目標に掲げずに原子力か再生可能エネルギーか等の議論をしても、本質的な問題はまったく解決しない。
      8. 本質的な問題とはつまるところ、人類の滅亡時期をいかに遅らせることができるか。しかもそれは何万年も先ではなく、おそらく百年単位の話である。孫やひ孫の世代に関わる問題であるからこそ、今すぐ取り組まなければならない(でももう遅いかもしれない)。

      …だんだんとりとめがなくなってきました。実際、エネルギー問題も環境問題も、もともと私の関心事である食料問題も、一方で地方再生も地域おこしも、すべてつながっているので仕方ないといえば仕方ないのですが、「自分は何ができるか」のレベルでは、もう少し焦点を絞らないといけないですね。 本を読んでも映画を見ても、被災地で1年間働いても、結局私は、「何をどうしていいかわからない」ままです。でも、たとえ堂々めぐりになっても自分で考え続けるしかない。今年は、少しそのフォーカスを絞って、ピントを合わせる作業ができればと思っています。

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ふくしま暮らし(7)-1年たちました」への1件のフィードバック

  1. 金澤

    負の感情は人を蝕みます。苦しめて食い尽くします。でももうそこにしか持っていけない人がいるのが苦しい。

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