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祖母の死に寄せて

先日の敬老の日に総理大臣から百歳長寿のお祝いをいただいた祖母が、亡くなりました。
およそ病気とは無縁の祖母でしたが、年齢とともに衰弱し、ついに自力で水分も嚥下できなくなりました。家族の総意で、薬を打たれることもなく、たくさんのチューブにつながれることもなく、約十日後に自然死、すなわち餓死しました。
死ぬ前日に会いましたが、文字通り骨と皮になった祖母は、目をつむったまま手だけ盛んに動かしていました。手を止めると軽いイビキのような音をたてていましたが、ときどき片目を薄く開けても発声はしませんでした。したくてもできなかったのかもしれません。枕元のタオルを口のほうに持っていくような仕草や、起き上がろうとするような仕草もしました。息をひきとる2時間くらい前までそのようにしていたそうです。そんな祖母の姿は、「穏やかに、すやすやと眠るように」というイメージとは少し違いました。そんなものを期待するのはこちらの身勝手なのでしょう。まだ生きようとしているように見えました。ああ、こうやって人間は死んでいくんだな、と思いました。私に子供がいたら、絶対に見せておきたいと思いました。
人間が自然に死ぬ姿を見せてくれた祖母に感謝しています。おばあちゃん、ありがとう。

中川家は臨済宗ですが、母方の愛川は浄土宗。南無阿弥陀仏のお葬式は27年前の祖父以来で、なんだか新鮮でした。
実は浄土宗に対しては、よく知りもせず、ただ「他力本願、念仏となえてれば救われる」という、なんとなく安直なイメージを抱いていました。念仏はもちろんナダヨガのマントラチャンティングも、儀式っぽくてなんか胡散臭い感じで、まじめに取り組む気になったことがありません。ところが、告別式に来てくださったお坊さんは、お経の前に講話をはじめ、私の顔をみながら「他力本願」のほんとうの意味や念仏の効用を話してくれました。なんだかちょっと見透かされたような気がしました。
ちょうど前日、空也上人の本を読み終わり、浄土思想というのは日本(やインドや中国)の歴史のなかで生まれるべくして生まれてきたものなんだと理解したところでした。浄土宗が少し身近になりました。

ところで、南無阿弥陀仏の南無は、ナマステのナマ(ス)と同源だそうです。もとは頭を軽く下げるという程度の意味だったそうですが、それがいつ首を斬られてもいいような姿勢であることから、転じて「すべてお任せする」という意味になったそうです。すべてお任せする、というのは、自分はなにもしなくていいという意味ではなく、できることをすべてやりつくしたら、あとはあれこれ心配せず落ち着いて構えるということだそうです。ヨガの勉強をしているとSurrenderという訳しにくい言葉にぶち当たりますが、これと同義かなと私は解釈しました。言うは易し…

たとえば空也上人が現代の東京にいたら、どんな活動をされるのでしょうねえ。それより、自分にいま何ができるか考えないといけないな。Surrenderするのはそれからです(笑)。 合掌。

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