ブログ引っ越しました

東京を離れ、福島県浪江町役場で働き始めて1年9か月。復興庁からの応援職員としての派遣期間は、10月末で無事終了しました。でもまだ福島にいます。ここ半年ほど、家庭の事情もあり紆余曲折あったのですが、結果的には役場の任期付き職員となって、いましばらく復興のお手伝いをすることになったのです。

このブログは最初、東京でやっていた小さな小さなヨガサークルの会員さん向けに始めたものでした。といっても大したことは書いておらず、自分の関心事であるフードロスの問題や、自分がなんちゃってベジタリアンになった経緯なんかをたまに綴るだけでしたけど。そして2014年1月に福島での生活が始まってからは、当地で見聞きしたことを会員さんはじめ東京の知友人にぜひ伝えたいと思い、「ふくしま暮らし」というレポートを書きはじめました。

更新履歴を見ていただけばわかりますが、来て最初のころは月に1回程度、新しい記事を投稿していました。それだけ見るもの聞くもの新しかったということです。赴任してすぐ浪江町にいって、ひっくり返ったままの船やさびた自動車、そこここに集められたままの瓦礫の山、人の姿がなく雑草が伸び放題となった駅前などを見たとき、それはショックでした(ちなみに、1年半後の今はガレキ類はほとんど片付いてます)。

ところが、何事もそうですが、これがだんだん見慣れてきます。そして、原発事故被災地のかかえる課題とは、そういう「いかにも」なビジュアルで語れるものなどほんの一部でしかないことがわかってきます。知れば知るほど、被災地からの発信というテーマで長い文章を綴ることが苦しくなってきて、最近は9か月もほったらかしでした。

基本的には私の力不足です。福島大の開沼博さんが今年、「福島難しい、面倒くさいになってしまったあなたへ」というコピーで「はじめての福島学」という本を出されましたが、まさにそれ。あえて言えば「面倒くさい」でなく「畏れおおい」に近いでしょうか。放射線の話も賠償の話も避難指示解除の話も、もちろん公務員としてソーシャルメディアで書けることと書けないことがありますが、それ以前に、数百字程度の短い文章では伝えるべきことがちゃんと伝えられない。でもちゃんと伝えるにはものすごくいろんな説明が必要で、かといってもちろん自分も全体が見えているわけではないし、もっともっと調べなきゃ… と逡巡しているうちに、もうブログを通じて友人たちに何をどう伝えたらいいのか、自分でもわからなくなってきたというのが本音です。

なので、「被災地の現状を伝える」というミッションは当面、仕事の上だけに限定することにして、ブログでは日常生活の話を綴っていくことにしました。新しいブログはその名も…

Life in Fukushima 50歳からの単身地方移住日記 http://www.lifeinfukushima.wordpress.com

当初は1年少々の派遣期間のみ「お試し移住」のつもりが、なんだかんだで本格移住へ。ということで、東京のマンションを引き払った9月末から自分の記録をかねて書きためたのを、先日公開したものです。

記録と同時に、地方暮らしに少しでも興味のある人にとって、それも2年前の私のように東北の被災地へお試し移住を検討している人にとって、なんらか参考になったらといいなと思っています。近いうち、これも更新頻度が落ちてくるだろうことは容易に想像できますが、たまに覗きにきていただければ幸いです。(2015年11月)

Life in Fukushima 50歳からの単身地方移住日記 http://www.lifeinfukushima.wordpress.com

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ふくしま暮らし(7)-1年たちました

少し前になりますが、映画『日本と原発』 を観てきました。 昨年11月から東京で上映が始まり、その後も各地で自主上映や有料試写会が継続しているようです。私が行ったのは六本木シネマート。定員150人ほどの小さなシアターですが、超満員でした。 この映画についてのプロの評論は、 「超映画批評」日刊ゲンダイをご覧いただくとして、以下は私の感想です。

    「原発の真実」を暴露するといっても、弁護士さんたちが作ったドキュメンタリーということなので、もう少し客観的な、というか多面的なアプローチを予想していましたが、違う印象でした。2時間17分は映画として短くはないですが、やはり「原発の問題」をぜんぶ網羅するのは不可能です。

    たしかに、映像の威力はすごい。素人が全文を読み込むのは不可能な事故調査報告書や原発運転差し止め判決文、政府の内部文書や東電の記録映像などを、ダイジェストして絵と音声で解説してくれるので、素人の頭にもすっと入ってきます。しかし、原発は危険・不要、再稼働を許さない、という主張に沿った部分しか抜粋されていないので、観るほうはそういう理解で観ないといけません。もちろん、東電をたたき、推進派の主張を論破するのを見て、ただ「溜飲をさげる」という観賞法もあるでしょう。が、原発へのスタンスを決めるため問題を一から勉強したいという目的であれば、この映画だけでは到底足りず、数々出版されている書籍類も合わせて読むべきと思います。

    特に足りないと感じたのは、原発を受け入れた自治体側の事情です。そもそも、どうして日本にこんなに原発ができてしまったのか?地元はどうして原発を欲してしまったのか?そこに踏み込まないと、日本から原発をなくすことは不可能でしょう。仮になくなったとしても、「(東京のために)地方が犠牲になる」という構図は、別の形で繰り返されるだけではないでしょうか(とにかく原発がなくなりさえすればいい、という問題認識ならそれでも良いかもしれませんが)。

    そして、この映画では、被災自治体としてなぜか浪江町だけが大きくフィーチャーされています。というより、被災地・被災者として紹介されているのは、ほとんど浪江だけ。あたかも浪江町が被災地の代表のように紹介されていることに、いまその自治体で手伝いをしている身としては少々違和感を覚えました。たしかに、震災翌朝の避難命令のせいで「助かったかもしれない命を見殺しにした」という悲惨な経験は、反原発ストーリーの象徴としてふさわしいかもしれませんが、それは浪江に限った話ではありません。

    今でも避難指示が継続中の10市町村は、外からみれば「原発被災地」として一括りかもしれませんが、事情はさまざまです。よく言われるように、実際に原発が立地していた町と、そうでない周辺の町では、事故前に受けていた「恩恵」の質量も、事故当初の状況も、そして現在の状況もかなり異なります。そのなかで、浪江のストーリーだけが都合よく利用され、反原発のシンボルとして祭り上げられたようで、複雑な心境でした。もちろん、浪江町の立場は、いまでは原発再稼働反対です。しかし、立地ではなかったもののイチエフの恩恵がゼロだったわけではありませんし、実際、東北電力の原発を誘致もしていた。浪江も原発がほしかったのです。

    また、一緒に映画を見た友人は、こういう感想を述べました。いわく、東電や安倍・自民政権といった「わかりやすい標的」の攻撃で終わっているが、根本には日本国民全体の「豊かになりたい」というあくなき欲望があって、そこを注視しなければ問題解決にはならない、と。その通りだと思います。 2時間という限られた尺で、「そもそも経済成長は必要か・豊かさとは何か・幸せとは何か」といった哲学的議論まで展開できないのは致し方ありませんが、相手を攻撃するだけでなく、自分の胸に手を当てるような場面が、少しでもあったらよかったかと思いました。

      ・・・とここまで書いたのが約3か月前。 原発との向き合い方に悩み、ヒントになればと思ってこの映画を見ての感想文だったのですが、読み返してみると、「だから何をどうすればいいと思うわけ?」と突っ込みたくなりますね(笑)。 今月、原発被災自治体のひとつ浪江町で働き始めて1周年を迎えました。原発についての考え方は、実はまだ整理しきれていません。でもここでいちど、頭の中のものを言葉にしておきたいと思います(もちろん、すべては私個人の考えであって、所属組織の見解とは無関係です)。 大まかに言うと、

      1. 原発は、①出た危険ゴミの処分の仕方がわかっていない(机上ではOKでも実現不可能なら同じこと)、②機械なので事故や故障は想定されて当然だが、壊れても直し方がわかっていない、③実際に壊れたときの社会的損失が大きすぎる、という点において、諸々のメリットを上回るリスクがある。
      2. その「社会的損失」とは、長期避難生活を支える行政コストや電力会社による賠償額といった数字に表せるものだけではない。被ばくの不安はもとより避難やコミュニティ崩壊による心身への負担、それによる諸々の逸失利益、人々の亀裂を修復するのに要するエネルギー、といった数字に表せないもののほうが格段に大きい(この大きさは近くにいると直感的にわかる)。
      3. 人口がこれ以上増えず、国レベルで一定の物質的豊かさを達成した日本では、このようなリスクの大きい発電方法は不要である。それでエネルギー需要が賄えず、経済成長できないというのであれば、しなくてよい。経済成長は目的ではなくあくまで手段のはず。目的は国民が幸せになることであって、経済成長しなくても国民が幸せになる方法を模索すればよい。そこにこそ知恵を絞るべきである。国内のすべての原発は再稼働することなく、速やかに廃炉のプロセスを開始し、廃炉技術の研究開発にこそ投資すべきである。
      4. 原発立地自治体が(周辺自治体もある程度)、様々な経済的恩恵を受けてきたのは事実であるし、たしかに原発がなくなると多くの人が職を失うかもしれない。しかし、「撤退されると困る」構図は原発だけでなく、どんな産業施設にも言えること。国策で推進されてきた原発だが、どんな国策も未来永劫不変ということはあり得ない。原発という麻薬はもちろん、大きな装置産業さえ誘致すればいいという発想に頼らない地域経済の設計にこそ、英知を集めるべきである。
      5. 一方で、世界の開発途上国ではこれからも倍々ゲームでエネルギーが必要になっていく。彼らに対して「豊かさを求めるな、貧しいままでいろ」という勇気がない限り、少なくとも短期的には、彼らのエネルギーミックスから原子力を排除することはできないのではないか。そこに日本の持つ原子力技術(失敗の経験も含めて)を提供することには意義があり、この先確実に必要となる安全な廃炉の技術においてこそ、日本はリーダーを目指すべきではないか。
      6. しかしこの理屈だと、日本はもうアブナイ原発卒業するけど、貧しい国のみなさんが日本みたいな生活水準目指すなら、仕方ないのでアブナイものも使ってね、これ以上地球温暖化進むと困るから、ということになってしまう。
      7. 当面そういうジレンマには目をつぶるしかないが、同時に、早急に、増えすぎた世界人口を抑制して地球全体で必要なエネルギーの総量を減らす方法を模索すべきである。これを目標に掲げずに原子力か再生可能エネルギーか等の議論をしても、本質的な問題はまったく解決しない。
      8. 本質的な問題とはつまるところ、人類の滅亡時期をいかに遅らせることができるか。しかもそれは何万年も先ではなく、おそらく百年単位の話である。孫やひ孫の世代に関わる問題であるからこそ、今すぐ取り組まなければならない(でももう遅いかもしれない)。

      …だんだんとりとめがなくなってきました。実際、エネルギー問題も環境問題も、もともと私の関心事である食料問題も、一方で地方再生も地域おこしも、すべてつながっているので仕方ないといえば仕方ないのですが、「自分は何ができるか」のレベルでは、もう少し焦点を絞らないといけないですね。 本を読んでも映画を見ても、被災地で1年間働いても、結局私は、「何をどうしていいかわからない」ままです。でも、たとえ堂々めぐりになっても自分で考え続けるしかない。今年は、少しそのフォーカスを絞って、ピントを合わせる作業ができればと思っています。

ふくしま暮らし(6)-だから、福島のコミュニケーションは難しい

NHKの全国ニュースでもやってましたね。
今日(10/17)発表された帰還意向の調査結果で、「浪江町に帰るつもりはない」が半数になってしまったと。

報道、特にテレビのニュースとして切り取られるとき、いろんなものがそぎ落とされる。もちろん残るのはエッセンス、のはずだけれども、必ずしもそうではないと思う。

どんな気持ちで「帰るつもりはない」に〇をつけたのか。「いずれは帰りたい」との違いはどこなのか。
そもそも、「帰るつもりはない」人たちがなぜ、いまだに町からのアンケートに回答しているのか。
ニュースでは、「帰るつもりはない」を「帰還を断念した」「あきらめた」と言い換えてますが、本当にイコールなのか?

「帰るつもりはない」人たちがこんなにいるのに、実際に浪江町から転出した人たちは1割未満です。なぜか。
ぶっちゃけ経済的な理由は大きいとは思う。浪江町民=被災者であればいろんな「恩恵」がありますから。でもそれだけか?

言葉を表面的に解釈するだけでは、もう実態はわからない。でも、多くの人に伝えるためにはなるべく簡潔にしないといけない。

その過程で、どんどんそぎ落とされていく、なにか。

もうすぐ福島県知事選挙です。紅一点、いせきさんていうコンビニ店長さんが立候補してますが、その選挙公報の中にこういう一文が。

・・・「『事故があったって、福島は頑張ってこんなに復興しているじゃないか』とまるで第二、第三の福島が出ても大丈夫かのように扱われてしまうのでないか」・・・

実際、福島は「事故があったって、福島は頑張ってこんなに復興している」とアピールしてます。そうアピールしたい気持ちは、たくさんの県民が持ってるはず。一方で、いせきさんのような感じ方もある。

だから、「復興してます!」「復興なんかしてません!」という両方を使い分けなければならない。
本当は文脈によるのだけれど、いちいち説明できない場合も多いから、一見矛盾したメッセージが出てきてしまう。

ほかにも、

「早く帰りたい」っていってたのに、避難指示解除しようとするとなんで反対するんだ?

とか。

「早く仮設を出たい」っていうから公営住宅つくったのに、なんでみんな入らないんだ?

とか。

丁寧に説明しないと、当事者以外には一見矛盾だらけに見えてしまう事象が起きるのですね。

だから、福島のコミュニケーションは難しい、と思うのでした。

ふくしま暮らし(5) ―「福島を忘れない」というとき

いやはや暑いですね。みなさん、紫外線量だけでなく、ちゃんと放射線量も気にしてますか?

先週末、福島県内の複数の空間放射線量モニタリングポストの値が、通常の数百倍などに急上昇。すわF1で大事故かと思いきや、どうも猛暑のせいで機械が誤作動したらしいという、笑うに笑えないニュースがありました。

素人ながら、おいおい暑さで狂う程度のものなのか?と情けなくなったと同時に、「だから国のいう数字なんか信用できない、やっぱり福島は人が住んではいけない危険な場所なのだ」という主張が、またぞろソーシャルメディアで散見され、暗澹たる気持ちになったのでした。

たまに欧米のネットメディアが、思い出したように福島を取り上げ、現地レポートと称して側溝にガイガーカウンターかざして、「おお!こんなに危険なのに政府は隠している!」みたいなストーリーになって、それがSNSで拡散してるのを見ても、同じくやるせない気持ちになります。

世の中にはいろんな意見の人がいるのだから気にしなければよい、と思いつつも、なぜか心がざわついて、どうしてもスルーできない自分がいるのです。なので、思い切ってこれについて書いてみることにしました。福島に来て、復興に関係する仕事を始めてまだ7か月、私の知見は非常に限られていますが、その範囲で考えていることです。

いま福島県内、とくに避難指示区域に隣接する市町村に住んでいる人たちの多くは、「それでも福島に住むことを選択した」人たちです。「国や東電にだまされて、危険なことを知らずに住み続けている、無知で可哀そうな人たち」ではありません。福島県内では、原発事故処理の話、汚染水の話、放射線量の話は、文字通り毎朝毎晩報道されており、この3年間、多くの人が自分なりにデータも情報も収集し、調べて考え抜いてきたはずです。子供がいればなおさらです。

低線量被ばくの健康被害リスクについては、偉い先生方の間でも諸説わかれており、いまの状態を危険と思う人、許容範囲と思う人、両方いて当然でしょう。そしてどちらも、自分の意見を補強する情報しか目に入らない認知バイアスがかかっているのも、また仕方のないことと思います。

危険と感じる人が、福島を離れることは当然の権利です。しかし、離れないことを決めた人たちに対して「福島は危険だ」と煽ることに、果たしてどんな意味があるのでしょうか。「そんな危険なところに残っていてバカじゃないのか」「小さな子供がいるのに逃げないのは犯罪だ」と言わんばかりの文章を読むと、どうにもやりきれません。

逃げたくても、仕事や介護などの都合、もろもろの理由で逃げられない人たちもいるでしょう。母子だけで遠くへ避難した世帯もありますが、そうして家族がバラバラになることのマイナス影響のほうが大きいと考えて、あえて家族一緒に「逃げない」選択をした人たちもいるでしょう。なにより、被災した自治体の役場職員をはじめ、現場で町の復興・復旧を託されている多くの人たちがいます。彼らがいなければ、だれがガレキを片付け、雑草を刈り、害獣を駆除し、道路や水道を直すのでしょうか?だれが復興まちづくりを主導するのでしょうか?そして彼らにも家族がいるのです。

そもそも国があの一帯(F1から20キロ圏とか)を国有化して、帰還不可能な区域にするべきだったのだ、という主張には、私個人の意見として賛成です。ほんとうに、もっと早くに、事故の直後に、そうすべきだった。そうすることの激痛を避けたために、かえって傷は大きく広がり、痛みは途方もなく長引くことになってしまったように思います。でももう引き返せない。「帰還」、つまり帰りたい人が帰れる状態にすることを目指す道を歩み始めたのだから、今はその道をなるべく短く平坦にすることを考えるしか、ないのではないでしょうか。

私自身は今回、好き好んで福島県の中通り、それも比較的線量が高いらしい地域に引っ越しましたが、リスクを感じないかといえばウソです。はっきり言って怖いです。でもそれは、毎日低レベルの放射能を浴びて、将来がんになるリスクが0.何パーセントか上がるかもしれない?のが怖いのではありません。また大きな地震が起きて、ボロボロのイチエフが今度こそ取り返しのつかない事故を起こすかもしれない。あるいは地震がなくても、人為ミスで重大な事故が起きる可能性は十分にある。その怖さです。つまり、現在ではなくて将来に対する怖さ。ちょっと揺れるたびにドキッとします。

でも、将来のリスクなら東京にいればまた別の怖さがある。結局、地球上どこにいっても100%安全という場所はありませんよね。

私は、今ここでやることがあるから、今ここにいます。と偉そうに言っても、しょせん期間限定ですからお気楽なものですが、ここでは多くの人たちが、先が見通せない中で、大なり小なり怖さと不安と悲しみを背負い、折り合いをつけながら、今ここでやるべきことを黙々と、黙々と、やっています。

実際のところ、福島県の人口200万のうち、強制避難・自主避難をあわせた「避難者」は、1割以下の13万人です。そのうち県外避難は、ピーク時でも6.2万人、現在は4.5万人(2.3%)にすぎません。残りの190万人余は、前向きか後ろ向きかは別として、「それでも福島に住むこと」を選択した(せざるを得なかった)人たちです(そもそも、同じ福島県でも会津方面では「浜通りとは別の県です」くらいの距離感覚で生活していると思いますが)。

今の福島がいかに危険か危険でないかという、決してかみ合わない不毛な議論ではなく、長期全町避難という多重悲劇を他所で二度と繰り返さないようにするためにはどうしたらいいか、その議論にこそ、みなの英知を集中できないものか。「福島を忘れない」というのは、その文脈でこそ意義があるはずだと思うのです。

ふくしま暮らし(4)― いわき、広野、楢葉、富岡

福島学構築プロジェクトが主催するスタディツアー、「福島エクスカーション」に行ってきました。 同プロジェクトは、福島大学「うつくしまふくしま未来支援センター」特任研究員の開沼博さんがリーダーを務めています。開沼さんは『「フクシマ」論―原子力ムラはなぜ生まれたのか』などの著作でも有名ですね。 今回のツアーは、開沼さんとスタッフも含めて総勢20名くらいでした。いわき駅に集合して広野町~楢葉町~富岡町まで北上し、いわきに戻ってくるコースです。

とりあえず写真から。

広野町役場まず広野町役場で町の現状を聞きました。あのJビレッジがある広野町です。

F1からは30キロ圏内で、旧緊急時避難準備区域。一時は全町民が町の外に避難しました。 ただ、町長が出した避難指示は2012年3月には解除されているため、いまでも町外にいる人たちはいわゆる「自主避難者」ということになります。

除染もほとんど終わって「帰れる状態」のはずですが、帰町した町民は3割弱にとどまっているとのこと。

国の避難指示が続く浪江町などの他の町村では、数年後に指示が解除されたとしても果たしてどれだけの町民が戻ってくるか、予想に悩み苦しみながら「復興まちづくり計画」を作っています。が、広野町の数字を聞くとさらに厳しさを感じざるを得ません。

昼食M君宅のあと、6号線を北上して楢葉町に入りました。楢葉は広野と違い、国の避難指示で全町民が強制避難中です。ただ、町内全域が比較的放射線量の低い、「避難指示解除準備区域」なので、昼間の立ち入りは自由にできます。

この町出身の福島大生M君の案内で、M君の自宅を見せていただきました。沿岸ではないので津波被害はなく、地震の損傷もないようですが、長期間住んでいないのでネズミの害がひどいとのこと(ほかの地域では、イノシシやイノブタ被害も聞きます) 。また盗難も頻発しており、ある時はなんと、庭の柿の木を根こそぎ盗まれたそうです。

楢葉町では、避難指示の解除時期をまもなく判断するとなっていますが、指示が解除されても町に戻らなければ、自主避難ということになり、借上げ住宅の家賃補償などが打ち切られます。帰るか帰らないか、M君の家では家族の間でも意見は分かれているということでした。

こちらは天神岬から一望する山田浜。津波で流された一帯ですが、いまは除染廃棄物の仮置き場になっています。遠くに見える煙突は、広野火力発電所。福島は、原発ができるずっと前から、火力発電所や水力発電所が建設され、首都圏に電力を供給してきたんですね。 仮置き場 (2)

さらに北上して富岡町へ。あまりにも有名になってしまった富岡駅の風景ですが、自分の目で見ると改めて胸がえぐられる感じがします。ただ、初めて浪江町に入って、沿岸部の状況を見せてもらったときほどの衝撃はありませんでした。ある意味、慣れてしまったかな。ここには毎日多くの見学者が訪れ、すでに「観光地」になっています。観光という言葉に拒否反応があるのは理解しますが、やはり広島の原爆ドームのように遺構として目に見える形で何かを残し、人が訪れる場所にすべきではないかと思います。

富岡駅1 富岡駅2 富岡駅4

富岡町を離れた後は、現在東電の作業拠点となっているJビレッジをバスで一回りして、いわきに戻りました。

夜明け市場

最後に、視察した内容を話し合うワークショップがあると聞いていたのですが、向かったのは一見レトロな飲み屋街(実際飲み屋街なんですが)。飲みながらやるのか??と思ったら、この中ほどの店舗の2階にオフィススペースが。

「夜明け市場」は、被災した飲食店オーナーや復興を支援する起業家が集まり、シャッター街になっていたいわき駅前の「白銀小路」を利用して作った「復興飲食店街」です。こうした起業家たちを支援するため、商店街の中にコワーキング(co-working)スペースも設置されているというわけです。

ここで、ツアー参加者は4つのグループにわかれ、広野町や楢葉町が2020年東京オリンピックの年までにどんな姿になっているのが望ましいか、その実現には具体的になにが必要か、そして自分は何ができるか、などを90分にわたって話し合いました。

正直、半日程度のインプットでは現実的な施策を考えられるわけがないですし、また90分という時間も短すぎるのですが、このワークショップの意義は、アイデアの実現可能性云々よりも、「自分ごととして考える」時間を持つということだと思います。視察して「あーたいへんねー」で終わるのではなく、何ができるか自分の頭で少しでも考えることは、こうしたスタディツアーにおいてはとても重要だと感じました。

しかし、いわきは栄えてますね。せっかくだから一泊しようかと思ったのですが、1週間前の時点で市内のホテルはどこも満杯でした。

ところで、このツアーを企画している「福島学構築プロジェクト」。まだ発足から日が浅いということもあるのでしょうが、いったい誰が何をしようとしているのか、ウェブサイトの説明を読んでもイマイチわかりづらい印象です。でも、「福島を課題先進地として意味づけし、そこからリバース・イノベーション発信地・福島としてのブランドを作る」、という発想には大いに共感するので、とにかく一度活動に参加してみようと思って申し込んだのでした。

感想としては、もう少し時間をかけてもう少し多くの情報を得、それを整理する時間がもう少し欲しいな、というところでしたが、東京から日帰りできるという条件で考えると、このくらいがちょうどいいのかな、とも思います。個人的には、いま私は浪江町にどっぷりなので、双葉郡のほかの被災自治体の状況を知る大変よい機会になりました。

他の参加者のみなさんとは半分くらいしか名刺交換できませんでしたが、やはり、というか研究者の方(それも原子力関係)が多かったようで、私は少々浮いてたかもしれません(笑)。

でもほんとうに、いま福島でこの仕事をしていなければ出会うことのなかった人たちと、こうして出会えることが楽しいですし、自分にあてられる物差しが増えて刺激になります。こうしてインプットを増やしながら、私自身、何をどうしたいかもう少しはっきりするまで、焦らず考え続けたいと思います。

 

ふくしま暮らし(3)-南三陸・気仙沼へ

公益社団法人アジア協会アジア友の会というところが主催する、「南三陸を訪ねる復興スタディツアー」に参加してきました。

参加の理由は、福島だけでなく宮城・岩手の津波被災地はどうなっているのか知りたかったから。正直いって、原発と放射能の心配をする必要がない宮城・岩手では、極端に言えば「壊れたものを直せばいい」のだから物事はシンプルだろうと、なんとなく思っていました。もうガレキの処理も終わったというから、少なくとも見た目は(福島の沿岸と違って)かなり復興が進んだ形になってるのだろう、などと勝手な想像もしていました。でも違いました。

(1)ここは南三陸町の志津川小学校から見た志津川地区です。このあたりは家も商店もたくさんあった場所。ガレキこそ片付いていますが、まだ新たな建物はありません。この辺一帯は70㎝ほど地盤が沈下したそうです(部分的に陥没したというより、沿岸部全体が海に引きずりこまれたという感じ)。浸水した地域は基本的にかさ上げをすることになっていて、写真のように部分的に盛り土が始まっています。しかし、この一帯をすべてかさ上げし、最後はその高さに合わせて道路も作り直すわけで、気が遠くなるような時間とコストがかかる作業です。

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こうした浸水地域は、インフラが復旧しても居住用の家は建てられないことになっており、高台への集団移転計画が進められています。といっても実際には遅々として進んでいないような印象でした。そもそも平野部が少なく、高台移転には山を切り崩さないといけないわけで、これまた途方もない時間がかかりそうなことは素人の目にも明らかです。仮設住宅の入居期間は当初2年の想定だったのが、3年になり今では5年になったそうですが、アジア協会のスタッフさんの話では、おそらく5年経っても高台移転ができる人は一握りなのではないかということでした。

待ちきれず、自力で家を修復するなどして沿岸部に戻った人も少なくないようですが、その地区が今後かさ上げされたら、自分の家が一段低い水たまりのような場所になってしまう可能性もあるそうです。

このかさ上げにしても、防潮堤の復旧にしても、決定は町村レベルに任されているとのこと。一見、住民の意見を尊重する最善の策にも見えますが、それだともしかして、隣り合った町でもかさ上げの高さが違ったり、防潮堤の高さも違ったりするという現象が起きないのか?という疑問がわいてきます。地元の方にこれを聞いたところ、まさにそれがいま起きていることなのだそうです。

(2)上の写真の中央右に写っている防災対策庁舎のクローズアップ。3階建ての庁舎全体が波の下になり、屋上に避難していた人もほとんどが流されてしまいました。これを震災遺構として残すかどうかは議論が分かれているそうです。

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(3)気仙沼市・大谷海岸。砂浜の砂はすべて海に持っていかれたそうです。いまでは波よけの土嚢が積まれています。手前は気仙沼線・大谷海岸駅のプラットホームだったところ。いまはコミュニティの足として鉄道に替わりBRT(バス)が走っています。

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(4)まだまだこれからという今、さらに悩ましいのは工事費や建設資材の高騰です。この河北新報の記事によれば、作業員の労務単価はうなぎ上り、災害公営住宅など自治体発注工事の入札不調が続いているほか、個人の住宅や事業所建設でも、坪単価が50万→80万等に値上がりしているそうです。東京オリンピックが近づけばさらに…という懸念は実感を伴います。

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仙台市内などでは復興特需的なにぎやかさも感じられますが、沿岸部の多くはガレキこそ撤去されたものの、まだ「復興」という姿には程遠い。曲がりなりにも「町」といえる状態を取り戻すまでには、まだ相当の時間がかかることがわかりました。

(6)それでも(福島と比べて)まだ救いかと思われるのは、漁業が復活していることです。もともと海産物の宝庫・三陸。いまはワカメと牡蠣が旬で、今回のツアーでもたくさんいただきました(私は牡蠣はパスですけど)。下の写真はツアー中の海の幸三昧のお食事です。原発の放射能汚染水は、海流の関係で三陸までは達しない(むしろ南へ流れる)そうで、風評被害もさほどではないとのことでした。漁師さんが漁に出られないのは本当に気の毒です。福島でも早く漁が再開できることを祈るばかりです。

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1日目のお昼にホタテ&野菜焼きをいただいた南三陸町歌津の「みなさん館」)は、アジア協会の支援で作られた産直品販売所です。この後、近くの集会所にて、午前中に見学した場所を津波が襲ったときの映像を見て、現地の「語り部」の方にお話を聞きました。このときの内容はまた改めて書きたいと思います。

(7)2日目に訪れた気仙沼のリアス・アーク美術館。ノアの方舟をかたどったこの美術館、あまり有名でないらしいですが、ここの「東日本大震災特別展示」は一見の価値ありです。単に写真や遺物を並べただけでなく、その1枚1枚にていねいな説明がつけられ、その言葉にも「伝えよう」という意思が感じられる。全体を通じて「収集・展示のプロ」としての気概を感じるエキシビションでした。この写真は屋外の展示で、一見ガレキを使った作品か?と思いましたが、もっと前からあるそうです。

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宮城・岩手の被災地を訪れるスタディツアーは既にいろいろな団体が開催しているようですが、今回のアジア協会さんのは、勉強の部分と観光の部分がほどよくミックスされ、非常によく練られたツアーでした(写真は載せてませんが、みそ工房も見学し、帰りは中尊寺にも立ち寄りました)。

アジア協会さんは、アジアの途上国各地での豊富な支援活動の実績を活かして、3年前の震災直後から南三陸町に入り、以来継続的な(持続可能な、といってもいい)支援を行ってきたそうです。現在のような1泊2日のスタディツアーは、1年ほど前から月1度のペースで開催しているとのこと。引率スタッフの方が行く先々で現地の人たちから信頼されていることは明らかだったので、この団体主催のツアーでなければ聞くことができない話や見ることのできない場所も見られたと思います。望まれる支援というのは、単発のイベント的なものではなく、現地に何度も足を運んでそのニーズに耳を傾け、現地の自立につながるようなサポート活動なのですね。

「三陸海岸の被災地」と一からげにイメージしてましたが、南三陸と気仙沼といった隣同士の場所でも、島の有無や半島の向きなどわずかな地形の違いで被害の程度はかなり違うということも知りました。ほんとうに、実際に行って現地で話を聞いてみないとわからないことは多いです。

被災地が「復興したように見える」までにはまだ相当時間がかかるので、逆説的なようですが、まだ間に合います。少しでも関心があれば、アジア協会に限らず現地をよく知る団体がコーディネートしたツアーを探して、参加してみてはいかがでしょうか。

ふくしま暮らし(2) 言葉がないとき

少し考えればすぐわかる話なのに、ここに来るまでちゃんと認識していなかった事実がありました。

ここの人たちは、助かったかもしれない人たちを見殺しにするという経験をしてたんだ、ということです。

がれきの下から声が聞こえてた。でも日が暮れて二次災害を防ぐため捜索・救出活動を一時中断した。

「明日の朝、必ず助けに来る」。そういってその場を引きあげた。

でもその深夜に、原発事故で逃げなければならなくなった。

次の日なら助かったかもしれない。でも逃げなきゃならなかった。助けられなかった。

そういう話を、こちらに来てから何度か聞きました。

「無人地帯」という映画の東京上映が始まったそうです。「住民が避難し無人となった20km圏内の風景」を撮った日仏合作のドキュメンタリーで、富岡駅のあたりや浪江町の請戸港も出てくるらしいです。

この予告編でも、請戸で上記の体験をした女性が語っています。

この映画、ウェブでたまたま監督の藤原敏史さんのブログを見つけて知ったのですけど。(こちらがそのブログ

富岡駅でのシーンについて、以下少しコピペさせていただきます。

「駅のホームから一望した海側は、ほとんどすべてが流されてなにもなくなっていた。そこを一面、無数の、白い防護服姿の人たちが、さまよっていた。今でもはっきり憶えている、それは悲しさすら吹き飛ぶ、ゾっとする光景だった。

まるであまたの幽霊が、あまりに破壊が激しく全てが消えてしまった原子野をさまよっているかのように見えた。

“幽霊” に見えてしまったのは、福島県警の捜索の警察官のみなさんである。

地震国日本の常識で、瓦礫の下の人の生存限界はだいたい72時間と言われている。本来なら出来れば当日か、翌日には真っ先に捜索に行くべきだったはずだ。いや「べきだ」以前に、この福島県警の皆さんはそんなこと百も承知で、真っ先に救援に来たかったはずだ。

だがそれが実現したのは、ここが津波で破壊されて1ヶ月以上経ってからだ。

40日前ならば、助けに来られたかも知れないはずが、遺体を探さなければならない。なんと虚しく、辛い、それでも必死でやり遂げなければならない作業だったことだろう。」

映画「無人地帯」の上映時間などは、渋谷ユーロスペースのサイトで紹介されてます(こちらクリック)。

避難を強制された人たちの、経済的損害はともかく精神的苦痛をどうしたら償うことができるのか?壊れてもいない自分の家を追われ、不自由な仮住まいに3年も耐えるという辛さ。家族や友人と離ればなれになる苦しさ。のみならず、救えたはずの命を救えなかったという無念さ。

言葉がないです。

最後はなんとかしておカネに換算するしかないけれども、おカネになってしまったとたんに今度は人々の分断が始まるんですね。

ほんとうに、言葉がないです。

ひとたび原発事故が起こって避難指示が出たらこうなる、ということ――ただ町が無人になって荒廃して、ということだけでなく、人間がどうなってしまうのか、ということ――を、全国の原発立地自治体はしっかり理解して備えをしてほしいと思います。原発を進めるならもちろん、なくすにしてもまだまだ時間がかかるのですから。